■1947年に兵庫県姫路市に生まれ、3歳で父親の転勤により神奈川県に移転する。
■描き出したら止まらないほど絵を描き続ける幼少期の後、油絵を、やきものを始めるまで断続的に描いた。
■10代後半はベトナム反戦運動から、労働運動の実践を通し、社会への視座、世界観を形成する。
■20代は、当時の夫との間に子ども3人をもうけ、子育て、地方公務員生活を。
■20代終わりから、現在に至るまで、同性パートナー米谷恵子と恵子の子ども2人と英子の子ども3人と共に福井県越前市に居を構え、初めて粘土を手にする。その住みかを「ベロ亭」とした。
■1978年、突然の母の死で決意し、独学で設計した窯を自らの手で築く。窯名を「ベロ亭賽窯」とした。
■1979年、恵子の支えのある中で、子育てと両立させながら福井県窯業試験場へ。
■1981年5月、試験場卒業後、大阪中の島公会堂で開催された女たちのフェスティバル「かしましカーニバル」に出展。米国のフェミニストアーティスト、ジュディ・シカゴの「ウーマンズハウス」の発想にヒントを得て、食器棚、ちゃぶ台、畳などをしつらえ、作品を実際に使いながらアピール。この時のじか売りの手応えの確かさが、その後30年近く展開する『ベロ亭やきものキャラバン』のひらめきとなる。このときから15年余り、自らを「たかがやきもの師」と呼んでいた。
■岩国の表現活動は、作り手から使い手へじかに手渡す、使いやすさとおもしろさを追求した日用雑器や、ユニークな作品を通して、独自の生きたネットワークをつくって来た。特に「泥人形」と呼んでいる陶彫作品では、人間の苦悩、喜び、出会い、祈り、笑い、そして叫びを土の塊に込めて制作している。
一方、パートナーの恵子の表現活動は、自作詩の朗読、時には英子の自作の陶の太鼓や笛との共演で。キャラバンに集う人々の空気を一変させ、感動を投げ銭で受け取った。また朗読劇は、恵子の詩のみならず各地の女たちの素朴な表現欲求に根ざした言葉を組み合わせた、詩のコラージュとも言うべきユニークな試みだった。言葉の持つ力を女たちと共に分かち合い、何人もの女たちと共に声を連ならせてきた。
こうして、二人で奏でる、ベロ亭の「キャラバン」では、その時々の自分達の抱えるテーマをやきものを見に来る人々に、キャラバンの共催者と共に提起し続けた。